『子どもの遊び」をまんなかにした子育てを!-2- (2009)

5、外で遊ぶということ
そこでもうちょっと、それだけじゃなくて、折角お集まりいただいたから、子育てそのものが、ある種「散歩」っていうことに非常になぞらえるように、子どもの時間を大事にするっていうことは、人としての時間を大事にすることを取り戻すことだって、我々の先達達が近代に入って見つけてきたことを今もう一回見つけてみることって意味があるように思いますっていうことだけじゃなくて、今を生きている子どもたちにとって、私は、外で遊んで子ども達が経験するっていうことが、欠くべからざる、すごく大事な経験になってきていると思っています。
その意味では、専門家として警鐘を鳴らす必要もあると思っています。
どういうことなのかっていうと、保育の中では子どもが育つことは遊ぶ事だって言われています。
教授学習と観察学習とありますけれど、学校での学び方と、保育の中で学校に上がる前での学び方は、違います。それが違うっていうことが充分社会的に理解されていないって言うことも、子どもの生活を、子どもの育ちを危うくしている要因だと思っています。

そこで、具体的に一例だけ取り上げておきたいと思っています。 
最近の若い人は・・・とか、あるいは最近の子どもは上手く人と関われない、人間関係が育めないと言われることがあります。
だから、親御さんたちが幼稚園選び、学校選びをするポイントの中に、あんまり人数が少なくなっていない、色んな子どもと出会える中でもまれるようにということってすごく多いです。
少子化だから。
それは人との関わりが大事だからという理由ですよね。で、その前提にあるのは、「最近の子ども達は人と上手く関われない、大人は上手く人と関われない」という言い方をされます。でも、それって、どうやったら育てられるのでしょうか?というお話です。
ひとつだけ、わかりやすさのために映像を見ておきましょうか。子ども達は、人とどうやって関わるの?と言ったときに、大人の人って、子どもに人と関わらせたいと思うと、例えばこういうときにこんなことをやってしまう、ということを、わかりやすく説明するための映像です。

私は今、大妻女子大学で、幼稚園の先生や保育士になる人たちを教えていますが、彼女達は「子どもが学ぶ・子どもが学ぶ育つことに関わる大人の役割」がどういうことなのかということが、よく分からないまま入学してきます。まあ、当たり前ですね。それを学ぶために入ってきていますから。そこで、そのことをまず根本的に考えてもらうために私がよく見せる映像です

~映像を見ながら~

4歳新入園の子ども達の映像です。二人の女の子がいます。
こうやって見せながら、さっきの所で一度停止した上で、学生に質問します。
「2人女の子がいるけど、一緒に遊んでいると思う?思わない?」と聞くんです。
そうすると、「普通の感覚で言うと、一緒に遊んでいると思わない」と。「どうして」って聞くと、「別に会話もしてないし、物のやり取りもしてない。
だから、それぞれがバラバラに遊んでるんだから、一緒に遊んでるとは思えない。」 パーテン(Parten, M.)という人が、隣にいてもいいということは、関わりをもう持っているということなので、一緒に遊んでいる直前ですよということで、プロの保育者たちは、こういうのは遊んでいると見なしても良いって言ったりもしますが、日常感覚でいうと、あれは遊んでないって。
「だよね、じゃあその続きね。」と言って続きを見せます。
そして、続けて、もう一回止めて、「はい、2番目ですと、同じ質問です、二人は一緒に遊んでいるでしょうか遊んでないでしょうか。」と聞きます。
そうすると、今度は大体9割から9割5分の学生が「遊んでいる」と答えます。「どうして?」と聞くと、「なんとなくやりとりがあるから」と答えます。
ところが、中にはよく見ている学生がいて、「いや、遊んでいるようには思えない」って。「どうして?」と聞くと、「右の子が左の子には関心があるような気がする。でも、左の子は右の子に関心があるようには思えない。むしろ、左側の子は右側の子が持っている水に関心があるんだと思う。だって左側の子は右側の子を見てない。で、水を取るときも、手首から先だけ引っ張ってきている。自分のものに入れられそうになったら、さっと黙ってよけた。
だから、あの子にとっては、右側の子の水が好きなのであって、別に右側の子と遊ぼうと思ってない。で、反対に、右側の子はずっと左側の子を見ているから、多分、右側の子は左側の子と遊びたいのだと思う、そうだよね?」と。これは本質をついています。
人間って、大人も子どもも感心のあるほうを見てしまいますよね。何にも言わなければ必ず見てしまうでしょう。だから例えば、小学校高学年とか中学生ぐらいの子が、「あいつはあいつのこと好きだぜ」というのがなぜ分かるかというと、見ているからです。では、そういう意味で言うと、右側は左側を見ているけど、左側は右側を見ていない。なるほど、というところで、「じゃあ先に行くよ。」と続きを見せます。 右の子が水を汲みに行って、戻ってきます。 

~映像~

3番目にも同じ質問をするんです。「一緒に遊んでいると思う?思わない?」これは普通の感覚で言ったら、「遊んでいると思う」です。さっきの2番目の質問のときに「よく見ると遊んでない」って言ったヤツが、いかにもスゲーってみんなに賞賛されていますので、博打ウチで、「いや遊んでないと思う」とかいうヤツがいますが、「何で?」と聞くと理由を答えられないので、これは「遊んでいる」となります。
現に、だんだん水を汲んできてもらったら、左側の子の体が右側の子の方を向いて、体が自分のほう向いたなと思ったら右側の子は、スカートをクルっとめくりあげて、初めて言葉として「これ?」「これに入れるの?」って聞きましたね。だから、やりとりが実際に生まれているから、一緒に遊んでいるっていう風にうつるっていうのは、分からなくはない。
でも、ただ、このときに、一緒に遊んでいるか遊んでいないかっていうのは、さして意味があるわけじゃありません。大事なことはどういうことかって言うと、そのあとです。

学生たちに何を聞くかと言うと、「じゃあ目の前で、遊びに入りたそうな子がいたり、物を借りたそうにしている子がいる時に、皆さん方が保育者だったらどうしますか?」というと、ほぼ100%、じゃあそういう時は「貸してって言ってみようか?」「いれてって言ってみようか?」「まぜてって言ってみようか?」っていう風に教えると言います。
つまり、子どもは上手く人と関わることができないから、貸してと言う言葉や、入れてという言葉や、まぜてって言う、『魔法の言葉』を、『言葉』として教えれば、子どもはそれを使って遊べるようになるって言う風に、そういうことを教えるのが学校の先生、保育園・幼稚園の先生の役割だと思っている。
でも、今の映像をよく見てもらえれば分かりますが、最初に遊んでいなかったように見えた子どもが、3分後には遊んでいるように見えた。子どもは入れてって言った?まぜてっていった?というと、言っていない。子ども達は、4歳くらいになってくると、実は、貸してとか入れてとかまぜてとか言わなくても、物を借りられるし、遊びに入ることができます。

もうひとつ、この一週間後の映像があって、女の子がジャングルジムの上でままごとをやっているんですが、そこにバケツで水を汲みに行くのが面倒くさいので、砂場の脇に水道管をつないで水道を作ろうとしているんです。
でも、水は高いほうから低いほうに流れるとか、同じ太さの塩ビ管つないでもダメだよっていうことが上手く分からないので、最初のジョイントの部分から水がどんどん漏れて、砂場に水が溜まっていきます。本人達なりには工夫して、水をちょっと強くしてみようとか、塩ビ管を揃えてみようとか色々とやっているんですが、どんどんどんどん水がたまっていきます。
そうすると、これが面白そうに見えた男の子が、ここに寄ってきて、遊びにまぜてもらおうとします。この男の子は、ここに来て何を言ったかって言うと、この女の子に向かって、「お母さんはいませんか?」と言うんですね。超・唐突です。このくらいの時期の4歳っていうのは、新入園だとお互いに名前も分かりませんから、「あの子」とか「この子」とか言っている時期なので、「お母さんはいませんか?」と言われても、お母さんは家にいますから、この子は「いません」と冷たく言い放ち、でも、別にこの男の子はお母さんを本当に探してたわけじゃなくて、「遊びましょ」と言うサインなので・・・、で、そのことを女の子は分かっていますので、男の子が二つ持ってきた洗面器のひとつに水を入れてこの男の子につき返します。

この返し方も見ていてください。男の子は直接渡してくれるんだと思って手を出しましたが、女の子は洗面器を下に置きましたよね。理由は、「お前と遊んでないから」です。だから、水を渡して返そうとしますが、この男の子は別に水が欲しかったわけではないので、次に入る機会をうかがいます。そんな中で、実は、別の男の子が、この女の子の遊びが面白そうになってきているので、「なぁに?これ?」と聞きます。女の子が、「ビール」と答えました。これは、見たままです。水が溜まっている中に砂を投げ込んでいますから、上にあぶくが乗っかって、「ビール」と言ったんです。 
そのビールと言った話を、さっきの男の子は5mくらい離れたジャングルジムの隣でじっと見ています。で、さっき「これ何?」と聞いた男の子は、自分の友達に、「おいビールだって!」と教えに行きます。そして、「ビールだって!」と言いながら、たくさんの男の子がわらわらと集まってきます。すると、最初に遊びを断られた男の子が、はっと何かを思いつきます。
男の子はさっきの洗面器を持ってきて、女の子になんて言うかと言うと、今度は、「ビールをください」と言います。女の子は答えます。
「ビールはいいけど、ここは、川とビールが混ざって、お魚がいるんです」・・・よくわかりませんね。(笑) 女の子は、「じゃあ、一緒にお魚に餌をあげましょう」と言います。
これで遊びに入れてもらったんです。で、入れてもらった後、この男の子が、あるいは周りの男の子たちが何をやっているかっていうと、砂を入れています。これは誰がやっている行為かと言うと、あの女の子がやっている行為。周りの子どもはそれを真似ています。
色んな子が集まってきて、小さいスコップや大きいスコップと、色んな道具の子がいますが、基本的には女の子がやっていることをなぞっています。 ひとりの別の男の子がスコップを持ってきて砂を入れても女の子は何も言いません。その後で、塩ビ管に手をかけてずらしたところ、女の子に「それ取っちゃダメだよ」と言われて、怒られ、男の子はすぐに戻します。

ここで何が分かるかって言うと、名前もまだ分かっていない子同士なのに、この遊び場があの女の子の遊び場だということを、子どもは知っているということです。 つまり、子ども達は4歳くらいになると、この遊びが、誰が始めた遊びで、誰が中心になっている遊びかって言うことを知っています。で、その子の動きを邪魔しないように、その子が望むように遊ぶと、子どもって言うのは、一緒に遊ぶ事ができます。

逆に言うと、遊べない子どもって何かって言うと、それを見る力が弱い子です。
で、その子どもに向かって、入れてとか貸してという言葉を「言葉」として教えると何が起こるのかって言うと、「貸して」を言葉としてだけ教わった子どもは、相手が使っている時に貸してといいます。
借りられるわけがないんです。「貸―しーて!」って言っても、「だーめーよ」って言われるだけです。また「貸―しーて」「だーめーよー」「貸―しーて」「だーめーよー」そして、ボカッ!て殴られる。それが、5秒か10秒か遅くなるだけのことです。これのもっと、大人が困っちゃうパターンが、「ごめんね」です。「どうすんの?こういうとき!?ちゃんと謝りなさい!」「ごーめーんなーさーいー(口先だけで)」とやられるのは、子どもは教わったとおりのことをやってるだけなんです。
だから、実は、人と関わるっていうことは単純に記号としての言葉を教えることは人と関わることにならないんです。

じゃあどうすればいいんですか?ということと、先ほど言った野外の遊びというのが関わってきます。で、すごく逆説なんですが、人と関わることは最終的には言葉を育むことです。
なぜかと言うと、例えば私がある人に何かをやってもらいたかったら、「すみません、やってくれますか?」も「やっといて!」も「やっとけよな!」も「お願いやって」も、全部「やって欲しい」という意味です。どういう風に言えば相手がやってくれるかということを選べる能力がなければ、子どもはうまく人と関われません。そういう使い分けが最終的に出来るようになるということが、言葉が育まれることです。

じゃあこういうことって、どう育まれるんですか?ということを考えていくときに、私のやっている冒険遊び場みたいな活動の中でも、子どもはどろどろの活動が好きで、何で子どもは、いわゆる泥遊びや水遊びが好きなのでしょうか?ということに繋がってきます。
実は世界的に有名な、イタリアのレッジョエミリアという公的保育システムです。これは世界的に有名です。で、ここでは例えば、触るということがどういうことかということが、保育者の専門書の中には書かれています。で、それだけじゃなくて、これ何かって言うと、コールドホット、ソフトラフ、ドライウェット・・・反対側の形容詞を出しておいて、子どもがどんな物に触れるのかっていうのを、分布を調べます。何でこんなことやるのかって言うと、実は、熱いと冷たいの両方を知らないと、ちょうど良いって分からないんです。で、子どもの好きな外遊びを擬音語擬態語に変えるとどうなるかっていうと、それは、ザラザラとか、ねばねばとか、びちょびちょとか、ベタベタとか、チクチクとかです。で、これは、家庭の中には絶対にないんです。家庭の中には、ぬるぬるした場所ってイヤですよね。家庭の中でざらざらした場所ってイヤですよね。実は、子ども達が好きな感覚って言うのは、その感覚っていうのが好きなんです。

つまりこれは、両方の感覚を味わって初めてちょうどいいがわかるんですよ、だからこのイタリアのレッジョエミリアでは、0歳の子ども達のクラスでも子ども達は粘土に触ったり、岩石に触ったり、鉄に触ったりします。日本は、ふかふかさらさらの物にしか触らせません。両方を知って初めて丁度良いって言うのが分かる。その感覚を私は中庸性と呼んでいます。こういう感覚を子ども達が味わう必要があると思っています。それだけじゃなくて、本当は、見る力が必要だと思っています。
自分が今どいう状態になっているのかっていうのを見ることです。だから、さっきの散歩の話もそうなんですが、子どもは何かを見つけたらじーっとよく見ています。じーっとよくみていることに対して大人がごちゃごちゃ言うっていうことは、実は、大人の関わり方が近すぎるんです。物の見方っていうのは近くと遠く両方あります。日本の保育の考え方っていうのは、比較的近い見方になりがちです。だから保育者は母性的な代名詞といわれるのは、近い見方だからです。
だけど、離れて見ないと、物って操作できないんです。上手くいってるかなとか、ちゃんとできてるかなとか、よりかっこよくなってるかなっていう操作の概念は、離れて見ることです。 
そのために、例えばこれはライトボックスっていうのをわざわざそこでは作るんですが、これは、光って言うのは、上からと下からと横からでは意味が違うって書いてあるんです。上からの光は照らされた物が特別だって、だから、教会の光って上からしかこないんです。目の高さに窓ないですよね、教会は。横からの光は時間の経過を現すって書いてあります。
だから、演劇をやられる方は分かりますけど、時間の経過を表すときに光を回しますよね、一行は旅立ちました・・・なんて。下からの光は、上に照らされた物を我々は思わず見てしまうって書いてあります。だから、思わず見てしまうような状況を作るんです。
だから、子ども達は、光に照らされたボックスの上で仕事をすると、ものすごく集中します。
で、それだけじゃなくて、鏡。鏡を多様化します。ごっこ遊びのようなところには必ず鏡が置いてあります。これはヨーロッパではスタンダードです。これはかなりシビアです。私何とかマン!ってなった瞬間に、ほんと?と聞かれるんです。鏡に。それから、絵を描くときもイーゼルを立てて2歳の子どもが絵を描きます。つまり、対象として扱うっていうことです。
感触的な力とか見る力、両方の力が備わって初めて、実は人と関わるって言うことができるようになるんですよということです。

これは、乳児期・幼児期、本当に0歳、1歳、2歳のころからそういう力を育てていないと、育たないんですよ。私はそういう例をたくさん見てきています。
例えば、外国籍の子ども達が多い新宿の歌舞伎町なんかだと、よくあるのですが、お友達を誘いたいんだけど、顔は満面の笑みをたたえながら、そこから先は、ものすごく拉致監禁のように暴力的にぎゅっと寄せてしまっていたり。でもこれも、4歳の子どもにはよくあるんですよ。あるいは5歳の子どもがカエルで遊んでいて握りつぶしちゃうっていう・・・。普通はほとんどないことです。2歳の子どもがおたまじゃくし握っちゃうことはあっても、5歳の子どもがカエルを握りつぶしちゃうことって、ないんです。だけど、そういうことが起こってしまう。3歳の子どもにウサギを抱っこさせるとよく分かるんですが、3歳に抱っこされるウサギは可愛そうです。子どもは優しく抱っこしてあげようと思っていても、ウサギのほうは羽交い絞めに抱っこされています。
だから実は、生き物を逃げないように死なないように、優しく掴んだりするって言う感覚は非常に幼い感覚の中にしか身についていかないんですよね。で、そういうことって、子ども達はどこで日常的に身につけてましたか?と言ったら、実は、遊びの中で身につけてたんですよということです。でも子どもは、そういう経験を今ものすごく、剥奪されています。

においの感覚なんかも、さっきの本の中には、臭覚というのが出てきます。においは人間にとってより現象的だと。保育園で子ども達を見ている人はよく分かりますが、落ちてるタオルがあって、これ誰の?と聞くと、子どもは何をすると思いますか?間違いなく、におって、誰々の!と言うんですよ。
大人も、フリーズしてしまった食べ物を食べられるかどうか、におって、大丈夫そう!とやるでしょう?つまり人間にとって、嗅覚ってすごく大事なんですよ。だけど、今子ども達の周りどうなってますか?おなかが減るのも、実は、においがするからおなかが減るんですよ。私の知り合いの園長で、給食っていう言葉が大嫌いな人がいて、時間が来て飯を食わされるのはそれは「餌」だって。人間は、食べ物のにおいがしてきておなかが減ったなって感じて、物を食べるんだと。でも、においの感覚が、今どんどん弱められています。なんでかと言うと、ファブリーズ。
つまり、人間が人間であることをどんどん剥ぎ取られて、やれ人とうまく関われないと言っている。
他にも、今の子どもは自己チューだ、わがままだとか、日本の子どもは世界的に見ても自己肯定感が低い、自信がないって言われてるっていうんですが、実は、さっきの、人と関われないということの中で今しゃべってるように、乳幼児期に本来はぐくまなきゃいけないことを育ませないような環境を作っておいて、「最近の子どもは・・・」と言ってる場合がものすごく多いんですね。
なので、そういう意味で言うと、子ども達の遊びって、「遊び」なんですけど、本当は人間の生きる基本であり、感じる基本なんですよ、と思っています。

子どもが育っていくためには多様な経験、空間や場が保障されなきゃダメです。三間(サンマ)の喪失と言っています。時間・空間・人の付き合い、人間ですね。
時間が保証されなかったら、子どもはトライアンドエラーできません。そうでないと身につきません。それから、自分として『責任を負う』って、子どもは上手くいかないということも経験することが許されているから、自分に自信がつきます。そういうことを守ってくれる大人がいないと、今すごく育ちにくい環境の中にあります。

浦安プレーパークの会の方たちが作られたプレーパークをやられてる人たちって言うのは、そういうことの危機意識っていうのは、もしかすると共有してくれている人達なのかな?と。で、ここにいらっしゃる人たちが、子育てを楽しみながら、でも子どもが育っていくって言うことの大切さみたいなことを一緒に考えてくれる仲間になってくれることを祈っております。

最後に、私の好きな一枚の写真をご覧いただきたいのですが、遊びの中では子どもも大人も関係ありません。これは5歳の男の子ですが、本気で大人とケンカをしています。上から見下ろされるのがイヤなので、わざわざ高い所にあがって、「ふざけんな」と。しかもこうやって腰に手をあてながら文句を言ってる。大好きな写真の一枚です。
次のこの女の子は、バームクーヘンを焼いているときに、片づけをしなくて、お母さんはドキドキして、「うちの子は全然片付けもしないで、何て子なの!」と怒っていたんですが、「いいからいいから」と言っていて、焼き終わったあとにこの子が何をし始めたかと言うと、自分は食べないで、みんなに配って歩くんです。そこで、私が、「優しいよね~○○ちゃん」ってお母さんに言うと、お母さんはめちゃくちゃ嬉しそうな顔をして、「そうかしら~?(笑) 」って。
ちょっと待って見ていたら、子どもって意味のあることをやってるんですよって。そういうことを、見ている大人のまなざしって言うのが、とても大事なんだろうと思います。

もうひとつだけいいですか?時間のある方だけ。 自己肯定間と自信の話。日本の子どもはすごく低いんです。世界的に見て問題になってるんです。自分に自信のない子が多い、自己肯定感の低い子どもが多い、じゃあどうやって育てられるのかって言うときに、これも遊びと関わってくるんです。

高い所から飛び降りる、高い所から飛び降りると言う活動。
こういう会をやると、いいお話を有難うございましたって言う人が多いんだけど、こういう講座は本当はダメなんです。というのは、皆さん方は本当は遊びの話は、どれだけ大事で必要ですと話すよりは、自分が子どものときに遊んだ遊びの絵を描いてもらって、思い出してもらうと言うのが結構力になるんです。なぜかっていうと、自分が子どものとき遊んだ遊びと楽しかった遊びを書くと、そこには自分が悪ガキだった遊びとかを書いているんです。柿を盗んだとか、最近だとピンポンダッシュだとか、実は危ないことをやるっていうことって子どもはそれをやり遂げて、オレって結構やるじゃんと思える、で、高い所から飛ぶって言うのがそれで、普通は高い所を見つけると、子どもがなんて言うかっていうと、
「のせて」、「させて」、「やらせて」、「あげて」とか言うんです。
私たちはなんて返すかというと、
「あげない」、「だーめ」、「のせない」
なんでかというと、
自分の力で登れない所から落ちると大怪我をするから。自分の力で上がれるから、降りられるんです。
で、自分の力で上がれなくて悔しい思いをしたら、子どもはまたやろうと思うんです。
で、さっき言った、時間ってそういうこと。

この話は天野秀昭っていう日本の最初のプレーリーダーがよく話す話で、私もその話が大好きなんですが、高い所3mから飛び降りるんです。下にマットを引いてあるんですが、子どもでも身長が1mくらいはあるので、のぞくと4m。結構高いんです。そうすると、直前まで行ってもブルっていけなくなるんです。行ったり来たり行ったり来たりしてる。
で、あるときに5歳の女の子が飛んだんです。ふわっとバサッと降りたんです。
「オーやったじゃん」って見に行くと、子どもは涙ちょちょ切れてたんですが、涙を拭いて、「もう一回!」と言ったんです。で、そういう幸せな場面にも出会える一方、次のような悪夢にも出会うことがある。天野さんは自戒をこめてその話をするんですが、3年生くらいの男の子が父親に連れられて遊びに来てる。リーダーハウスの上から跳ぼうとしてた。 でも飛べない。そうすると、後ろの子どもから、「飛ばないの」と言われる。そうすると、飛べないもんだから段々お父さんいらだってくる。
「早く飛べ!みんなまってるぞ!」 で、そのこより小さい5歳とかが飛んでたりすると、 「お前より小さい子が飛んでるじゃないか!何してるんだ!はやくとべ!」 言われたって飛べないんですよ。
「で、お前!女の子がとんでるんだぞ! おまえいくつだとおもってるんだ、男だろ!」とか始まるわけです。
「で、お前!女の子がとんでるんだぞ! おまえいくつだとおもってるんだ、男だろ!」とか始まるわけです。

で、さっき言った、子どもの頃の遊びの絵を書いて、そうするとね、例えば木登りしてて、落っこちて5針ぬったとかっていうのは、これは勲章なんです。スッゲー大変だったんですよ、これ、10針も縫って!その傷の大きさは10針はないなとか思うんだけど、尾ひれかなんかついて、さも自慢げにしゃべるんです。ところが、自分が選ばずにやらされたあげくに足の骨まで折ったら、この子にとってこれは一生の“屈辱“です。
実は、子どもって、時があるんです。育つ時というのが。その時を待ってもらえるかどうかで、ものすごく自信に繋がります。

今日もうひとつ見せようと思っていた映像に、5歳の子どもが巧妙に自分の嫌いな給食のねぎを捨てるというのがあるんです。隠れて隠れてねぎを捨てるんですが、その映像を見せたときに、「どうする?」と学生達に話すと、色んなことをいったりやろうとしたりするんですが、ひとつだけでてこないのは、ねぎを捨てているそのこが一番辛い思いをしてるというのが分かっていないということ。子どもって、自分が6歳の誕生日を迎えるのを境に、急にねぎ食べるとかって言ってみたりするんですよ。で、私もそういう例をいっぱい見てきてるんですが、ある男の子なんかは、「ネギ食べる」って言った翌日のお弁当、お母さん嬉しくなっちゃって、ネギだらけ。子どもはフリーズしちゃって、このときに保育者がすごかったのが、私はどうするのかなと笑いそうになって見ていたんですが、大粒の涙が流れてきたら、その先生は何をしたかと言うと、「ハイ、三択」って。
「このまま食べられないって泣いている、しょうがないからあきらめて食べる、明日食べる。」子どもは、「3番。」で、明日食べようといって、そこから珍道中が始まるんです。どんな珍道中が始まるかと言うと、本人が頑張り始めるんです。そこは実習園だったんですが、ある実習生が来て、好きな遊びは?とか好きな色はとか、5歳くらいになるとインタビューごっこをやるんです。実習のお姉さんも。
そしたら、たまたまその子が前に出ちゃったときに、好きな野菜は?ってあたったりしたんです。何て答えるんだろうと思って見てたら、その子は、「水で飲み込める野菜」と言ったんです。そうだよな、水で飲み込める野菜が好きだなと言いながら、食べられるようになっていくんです。

実は私の娘が今高3ですけども、小学校1年生のときに水泳ができなくて、最初の夏休みに大泣きしてもめたんです。
そのとき娘に、3択をやったんです。母親と行くいかないでもめてたから。「行かないで泣いている、あきらめて行く、先生に夏休み洗面器で練習するから、今日はできませんと言いに行く。」子どもは「3番」といって、小学校の職員室に行って先生に話しました。先生はすぐに降りてきて、私に向かって、「いいんですよ、泳げなくても」「いや、私泳げます。」泳げないのは娘だから。
でも先生は私に向かって一生懸命言うんです、「いいんですよお父さん、泳げなくっても。」「いや、私は泳げますよ」で、そこから、子どもは嘘をつきまくりながら、「今日は風邪気味だからお休みしますと親が言っています」とかいいながら、逃げまくってるんですが、5年生になったときに、何をやったかと言うと、「水泳教室に行かせてくれ」と言い出したんです。「いいよ」と行かせて、戻ってきて「どうだった?」と聞いたら、「屈辱だよ」という。「何で?」と聞いたら、周りは全部2歳児。自分だけ5年生で。それで、11日間だけ行ったんです。伏し浮きが14mできるようになって、やめるんです。で、「もう私大丈夫だから」と。で、彼女の口癖はなんだったかと言うと、「私はやればできる子」だ。と。
実はあの子は幼稚園のときに、やっぱり野菜が嫌いで登り棒ができなくて、でも頑張ろうというときに、頑張ってできるようになって、それを先生に認められ、友達に認められたときに、それ以降、私はやればできる子だからとずっと思ってるんです。 つまり、子どもって、育ち時があるんです。それを守って支えてくれると、子どもって自信を持てます。 

遊びって、自分が選ぶから遊びなんです。上手くいかなくてつまらなくてもいいんです。 大人の人って、子どもがつまらなさそうにしてると遊んであげちゃいたくなるんですが、自分が選んだ遊びでつまらないのは自分のせい。
なぜ人は育つのか学ぶのか、飽きるから。飽きるからもっと学びたくなるので、飽きる経験やつまらない経験も、育ちですよ。遊びを大事にするってそういうことですよ。という、このことが、日本では認められてないんです。つまらないというとすぐに大人が手を出す。そのくせ、何か自分が本当にやりたいって言うことはやめろって言う。
それでは子どもに自信は育たないと私は思います。人とのかかわりもそうですが、子どもが育つ環境を奪っておいて子どもが育たないと言うのはやめたいなと思います。
以上です。

~質問~

司会:何か岡先生に聞いてみたいこと、この機会に是非いかがでしょうか?

会場ママA:今日は大変良いお話をありがとうございました。
先ほど男の子が仲間にいれて欲しい場面のビデオで、ちょっと教えていただきたいんですが、先生が魔法の言葉って言われていた「貸して、入れて、まぜて」とか、そういう言葉を是非子どもに覚えさせたいなと思っていたのですが、それよりも先に見て判断するって言うことを先に教えるほうが大切だって先生はお話されたんですが、そうするために私は何をしてあげればいいんですか?

大妻女子大 岡先生:いっぱいあそんであげることですよね。
たとえば、1歳児2歳児は砂場に行けば、使いたいものがあれば持っていっちゃいますので、 持っていっちゃったときに何が問題かと言うと、子ども同士だとこれは当たり前なんですよ。別に使ってないときに持っていかれても、その子は何もいやな思いをしないんですよ、本当は。ところが何が起こるかと言うと、親同士の関係が面倒くさいんですよ。「「勝手にウチの子のシャベル持っていったわ!」って思ってないかしら?」って思うから、「貸してよね?貸しては?」と言わなきゃいけなくなるんですよ。
だから本当は、そういうことが許されるような関係になっているのが一番良いんです。だから、私は野外の遊び場を地域のお母ちゃんたちと一緒にやっているんですが、そこで母ちゃんたちは何て言うかと言うと、「楽~ここは~」って。だから、子どもが取り合ってビーって泣いてもいいんですよ。見てれば、落ち着くところに落ちつくんです。
私の知り合いの保育士が、オレは「貸して入れて」が大嫌いだって言う人がいて、よくブランコを待っているときに幼稚園や保育園であるんですが、ブランコを貸して~って言ったときに貸してくれないときに、「おまけのきしゃぽっぽ、ポーっとなったらかわりましょ、ぽっぽー123456・・・」あれをやっている園で、やっている園の保育士なのに、子どもがやったときに全く言うことを聞かないんですよ。すると、子どもが、え??っていう顔になるんですよ。で、もう一回貸してって言われると、ダメよって。また貸してって言っても、ダメよ・・・で、もうダメだって思ったら、子どもはあきらめて、どうするかっていうと、園庭ところに行って砂いじりをしているんだけど、目だけはチラチラチラチラとブランコが空かないかって見ている。それを保育士は確認したら、すっとブランコからいなくなる。すると、子どもがダーっと走って来て、バッとブランコを捕まえて。それを私もニヤニヤと見てたんですが、彼は私に何て言ったかって言うと、「岡さん、生きる力だろ?」って。

実は、さっき言った、「貸して入れてまぜて」っていうのは、最終的に人間関係は言葉なので、その言葉を言葉として教えることは構わないけど、言葉としてだけ教えても、子どもには身につかないので、じゃあどうやったら身につくんですか?と言ったら、使ってる人がいて、使ってる人が終わるまでは借りられないんだっていうことを肌身にしみて思うってこと。で、それこそ、まだ終わってないよねとか言いながら、さあ!今貸してもらおうっていう風なかたちで、それ自体を親も一緒に遊べちゃえば、良いわけですよ。で、そうしないでおいて、言葉だけで動かそうとすると、子どもはさっき言った、状況を読まないまま言葉だけで覚えても、それは本当に覚えたことにならないので、先々行って使えないですよと。だから本当は、乳児のときなんかは、そんなこと、言葉で言ったって分からないし、実力行使しに行くし、実力行使すればぶつかり合うし、泣いちゃうし・・・。
でもそうやって子どもは気付いていくんですよ。だからそれを許しあえる大人の関係であることが、本当は一番良いんですよ。
で、一昔前の大人は忙しかったので、そんなことか関わり合ってなかっただけなんですよ。別に昔の大人はおおらかだったわけじゃないんです。見ていなかっただけ。今の大人はマジメ。本当は見てなくてよければそれが一番楽なんだけど・・・。お祭りの大人と子どもの関係ってすごく私が好きなのは、お祭りのときってさんざん大人は酔っ払ってるじゃないですか。でも、目の端ではどっかで子どものことを見てるんです。だから、その親父がベロベロに酔っ払ってれば、別の親が「あんた何してんだ!」ってどっかで止めてくれるんです。そういう関係が実は子育て支援だったり地域づくりで。
なので、子どもにどうすればいいんですか?という最初の質問に戻ると、本当は、子どもがやるのを黙ってみてれば良いんですよ。で、やられてあんまり泣いていたら、「オーよしよし」と言ってやれば良い。だけどその時に、もう一歩許されるのであれば、本当はお互いの親同士が、そういうのありだよねっていうのを、実は、もめないうちに話しておかないと、もめてから話すと、「いいわけよね~、あれ~」となっちゃうので。

会場ママA:ありがとうございました。

司会:ではこれで浦安プレーパークの会主催の講演会を終わらせていただきます。本日は有難うございました。