『子どもの遊び」をまんなかにした子育てを!-1- (2009)

1、挨拶

司会:
浦安プレーパークの会主催講演会にお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。
本日は、大妻女子大学家政学部児童学科より、岡健先生に、「子どもの遊びをまんなかにした子育てを!」と題しまして、お話をしていただきます。
短い時間ではありますが、乳幼児を子育て中のお父さん・お母さんに、もっと楽しく外で過ごすヒントをお持ちり帰いただけるといいな、と思います。それでは、岡先生、よろしくお願いいたします。

大妻女子大 岡先生:こんにちは、大妻の岡と申します。今日は短い時間ですけれども、いただいた題、「「子どもの遊び」をまんなかにした子育てを!」ということで、副題、「小さいときだから大事にしたいことってどんなこと?」今、子どもを守り守るために、人間の根っこをはぐくむ感覚の大切さ、ということでお話ができればいいなと思っています。
今、岡田さんからお話があったように、「外遊び」、「親子で楽しく気軽に外で過ごすヒントがもらえますよ♪」ということですが、実は、今出ている「すくすく子育て」のテキストに、「散歩のススメ」というのが載っています。これは、私がこんなのをやったらおもしろいんじゃないの?と提案して、じゃぁやりましょうと取り上げられたもので、2009年10月に放映されます。
その中で、「散歩の極意」みたいな話がでていて、外遊びの楽しみ方や散歩の話から、外で遊ぶ事って何で大事なのかな?と言うことについて少しだけ話ができると良いかなと思っています。


2、散歩のススメ

放送中に、自主保育の親子の映像が出てきます。
原宿おひさまの会という、随分長い歴史を持った会で、毛利子来さんという小児科医の人が始められた、子育て支援の預けあい保育の走りのような、今でも脈々と続いているのですが、その乳児さんたち親子が毎日のように野外で散歩を楽しんでいる様子です。
散歩の途中に地下鉄の通風孔があって、その下を電車が通ったときの音に子どもが夢中になっていたり、あと、ミミズを見つけて触ったりしています。何をするわけではない、ただ散歩をしているだけなんですね。
そこに出てくるお父さんやお母さんは、「ただタラタラしているだけじゃないって思うお母さんもたくさんいるかもしれないですよね。」「早く目的地に行こうとって思うとすると追い立てることになるけれど、そうじゃなくて、子どもが寄り道するのは当たり前と思って。」「子どもが楽しくてそこで止まっているのなら、じゃあ止まっとけば見たいな感じかな。」と言っている。
NHKにこの番組を薦めたのも、実は、昨日も横浜市金沢区子育て支援者さんたちの学習会があって、そこに支援者さんたちだけじゃなく、子育てサークルの母ちゃんたちも急遽入ってきて、子どももいて、総勢50人が3グループに別れて、2時間の学習会のうち1時間散歩しまくってきたんです。
何でそんなことしているの?というと、この間、丸の内の子育てのシンポジウムで大日向雅美さんと話していて、そのとき私が、「散歩が楽しめることって、子育てが楽しめることに繋がると思う」と話したんですね。 

3、子どもって?
ちょっとだけ難しい話をしますが、「子ども」って、近代、産業革命以降に生まれてきた言葉なんです。
それ以前は「子ども」ってなかった。だから外国に旅行に行かれたりするとご覧になられた方がいるかもしれませんが、中世時代の絵を見ると、子どもが描いてあっても、顔つきは大人で、着ているものも大人の服で、形だけがミニチュア版というのがあります。
つまり、「子ども」って中世時代にはいなかった。小さな大人がいただけだ。それが、いや、子どもは大人と違う、と言うことが見つけられて、それを「子どもの発見」と言いますが、それ以降、学校ができたり、「発達」という考え方ができたりしていきます。 なんでそんな新しい言葉が生まれたのかということを、矢野智司という教育哲学者がおもしろいことを言っています。
「これ何ですか?」(マイクを指差しながら)と言われたら、「マイク」だし、「これ何ですか?」(花を指差しながら)「花」だし、「これ何ですか?」(携帯電話を指差しながら)「ケータイ」です。
そこで、「子どもってどこにいるの?」と聞かれると、ほらいるじゃないって言えそうじゃないですか。でも、大学生に「あなた大人?子ども?」と聞くと、途端にわからなくなってくるんです。
例えば18歳の学生さんに、「あなた大人?子ども?」と聞くと、二十歳未満だから子どもかな?でも、肉体的には子どもが産めますから、生物学的に言えば大人なんですよね。
そう考えちゃうと、じゃあ22歳の大学生4年生に「あなた大人?子ども?」って聞くと、成人式も迎えているし、生物学的にも大人だけど、自立してないから子どもかな?と。そうすると、子どもとか大人って、携帯とかパソコンとかお花っていうのと同じように、指し示されたものではないんだよ、と言う話になってくるんです。じゃあ、何なの?と言ったときに、矢野智司は、「子どもっていうのは時間意識だ」と言った。では、時間意識ってなんでしょうか。

実は中世までは、人間の人生っていうのは、春夏秋冬というめぐりめぐる時間意識だったんですね。
春が来て夏が来て、秋が来て冬が来て、また春が来て。前に「北の国から」という倉本聡の映画をご覧になった方いらっしゃるかと思いますが、あの最後の特集番組「遺言」の中で、「俺が死んだ後のこの六郷は、春はこうなって夏はこうなって秋にはこうなって冬にはこうなって、きっと何も変わらんのだろうなぁ・・・」と言うんですよ。つまり、それまでの人間というのは、春が来て、だんだん青年期を迎えて壮年期を迎えて、熟年期を迎えて老いていって、朽ちていって土になって、また新しいものが生まれる。だから認知症の人のことを赤ちゃんがえりと言ったりしたんですね。
ところが、産業革命以降どうなったかというと、産業革命って、向上生産と向上労働ですから、始まりがあって終わりがあって、まっすぐな時間に変わったんです。
そして、そこから以降というのは、いかに手順よく、効率的に合理的にやるかどうかということが、全ての価値基準になった。
だから今は、たくさんの量を、間違いなく、早くできる子が、頭が良い子と言われるんです。社会人も、たくさんの量を、ミスなく効率的に、早く出来る人が、優秀な人と言われるんです。
個性的に、アイデアが豊かに、着実にやる人は、個性的って言われるかもしれないけれども、優秀とは言われないんですよ。
だからこういう風に生きるようになってきたときに何が起こってくるかと言うと、「将来のために」っていう考え方が出てくるんです。

発達がでてくるのも、学校もそうなんです。いついつまでに何々をやっておくことが大事だよねと。これが良いか悪いかじゃないんです。そういう世界に我々は生きています、と言うことなんです。例えば、最近「エチカの鏡」で知的早期教育すごく流行ってきています。
知的早期教育、大脳皮質うんぬんかんぬん・・・なんて言うのは、ソニーの井深大さんが、随分前に、0歳からでは遅すぎる、10年間やって結果を出すと言っていましたが、10年間やって成果がなかったという結果が出た。
そこで井深さんが偉かったのは、成果は出ませんよ、と言うシンポジウムをちゃんとやったんです。
でも、成果は出ませんよと言ったところで、見えやすい成果や結果に我々は左右されてしまうので、その見えやすい成果以上のいろんな問題もはらんでいたと言うことも実は同時に語られているにも関わらず、そのことを無視した形で、またそういう話がでてきてしまい、右往左往されてしまうんです。
でも、実はその発想は、近代や現代を生きている我々にとって、どういう事として出てくるかというと、将来のために、何時までにいついつまでに何々をやっていくっていうのが、さっきの向上労働だと、最後に一番たくさんの結果(量)を出すためには中途の管理をやったほうが良いわけですよ。間で間違ったらすぐ戻して、いかに工程を管理して、間違いなくミスなく最後までいけるかという風にやっていったら、生産量が上がりますから、そういう風な形になるわけです。それが、「将来のために」という言い方に重なってくるんです。
そうすると、実は何が起こってくるかって言うと、じゃあ、何のために私たちは生きてるんでしょう?となったときに、将来のためにという言い方は、じゃあ死ぬために生きてるんですか?となってしまうんですね、究極的に言うと。「あー、なんだ、今頑張っているのは死ぬためか」という話になったときに、そんなばかな話はないと当時の人は考えたと、矢野智司は言うわけです。
だから、文学の世界ではユートピア論が同時にでてくるんです。本来の人間のあるべき姿と言うのは、将来のためだけじゃなく、今のために今を生きる生き方が大事なんじゃないか。
そういう存在を生きているのが、子どもだと。

4、遊びって?
実は、遊びも同時期に見つかるんです。
ことば遊びとか音楽遊びって言うのは「遊び仕立ての活動」で、本当は、「遊び」って、その人がそのためだけにやる活動を「遊び」って言います。
一番分かりやすいのは、よく、穴を掘るなんていう活動をよく子ども達と私は遊びの中でやりますが、あれは一昔前だと牢屋に入っている囚人達がやらされた活動なんですね。
なんでそんなことさせるの?と言うと、無駄だからです。 
でも、子ども達と一緒に穴を掘っていると、めちゃめちゃ楽しいんですよ。
やると蝉の幼虫は出てくるし、色んな物が出てくるから、子ども達は1メートルも掘ったら地球の裏側まで届くんじゃないかと狂喜乱舞しはじめます。
で、そうやって今あることを楽しんでいくという生き方自体が、実は、子どもとの時間、子どもの時間っていう考え方です。
だから、今、ある意味で言うと、子どもと一緒にいると育児ノイローゼになるというか、育児が辛くなるというは当たり前なんですよね。
何でかと言うと、子どもは今のために生きていますから、でも、大人は先を見通して生きているので、例えば、6時に子どもにご飯を食べさせようと思ったら、5時に作らなきゃいけない、そのためには4時には買い物に行こうと思って、子どもが3時半からおもちゃを出して遊び始めると、うわー!やられたって思う、こんなことが日常的にたくさんあるよねっていうのが、子どもなんですね。
で、実は、散歩の話に戻すと、今、外遊びがすごく減ってきている。公園はあるんだけど、子どもを連れて出ても公園で誰も遊んでない。なんでかと言うと、公園で遊ぶとなると、じゃあブランコやって、おすべりやって、お砂やって・・・、何やろう・・・で、公園に行くまでの間は、一生懸命バギー押して、一目散に公園に行って・・・。

でも、本当は子どもと散歩すると、子どもって色んなことを気がついて、色んな無駄なことをし始めて、その、色んな無駄なことを一緒に付き合っているのが楽しいよ、と。で、そういうこと楽しめるようになるといいよねっていうので、散歩のススメっていうのがでました。
そこで、今から出る映像は、そういう散歩をあまりしたことがないお父さんが出てくるんですが、散歩の極意と言って与えられた指令は二つだけで、ひとつは、子どもが何かを見つけたら、ボーっと見守る。もうひとつは、ボーっと見守りながら、その見ていることを楽しむ、その二つしかありません。 
このご家庭は奥様がイラストレーターで、お父さんが建築関係で、お父さんが専業主夫になった。奥さんが仕事をメインでするのを選ばれた夫婦です。
映像の中で、お父さんは、「遊ぶ時間っていうのを、今日は遊ぶぞ!何時から何時までちゃんと遊ぶ時間にあてるぞ!とそういうことが全然できていないものですから・・・」と言っている。状況的には、4時半に保育園から帰ってきた子どもは、お母さんのところに行きたい。でも、お母さんは18時くらいまでもう少し仕事をしたい、だから、お父さんちょっと外に出してきてくれる?と言う話なんですね。
「何時から何時まで遊ぶと言うことがちゃんとできていない」って、そう考えていくから多分すごく辛くなっていくんですが、で、さっきの散歩の極意をディレクターから言われて、散歩に行くぞっていう話になりました。

~映像~ 

↑ページ上部へ
陸橋で立ち止まって車を見る子ども。 段差を登ったり降りたり繰り返す子ども お父さん「近所だけど本当に知らないところがいっぱいあったので発見がたくさんありましたね。

子どもの目線だけで知らないことが随分細かい物がたくさん見つけられて楽しかったです」。

段差を(登ったり降りたり)何度もやってるじゃないですか。
子どもってあれが大好きですよね。子どもと一緒に過ごされるとすごく分かると思うんですが、あることを繰り返ししたがっているときの子どもって言うのは、そこで何かが育とうとしている時期なんだと考えて間違いないんです。
子どもって体が動くっていうことが、すごくそのこと自体が嬉しいので、例えば、物をつまむってことが好きだったら、その頃って、ものをつまんで出してみるとか、つまんでひっかけてみるとか、つまんで何々をするとか、洗濯ばさみを握るとか、そういうことがとても大好きな時期があります。
階段を登ったり降りたりしてる、何がおもしろいんだろうと思うし、大人は、さっきのことでいうと、あれをやられ始めると延々進まなくなるわけですね。繰り返し、繰り返し、繰り返し・・・するから。
そうすると、「公園に行こう」と言うことが目的になると、不思議なことが起こるわけです。
散歩に行くって言うのは、別に遊びに行っているんだから、公園に行かなくたっていいんですよ。
極端なことを言うと、公園に行く、はるか手前で終わってしまっても、じゃあ帰ろうかって帰ってくればいいんですが、公園に行かなきゃと思っていると、ああやって何度も何度も繰り返していると、「もう早く行こう!」とそれ自体が耐えられなくなってくるんですね。
でも、そのことに付き合ってみると、さっきのお父さんがそうだったように、ああなんか面白いことし始めるな、とか、面白いもの見つけるなというようなことが始まってくるんです。だから、ボーっと眺めるといいよってそういうことなんです。

昨日も、横浜で支援者さんたちと子育てサークルのお母ちゃんたちと散歩に行ったと言いましたが、すごく面白いなと思ったのは、散歩に行って、草原に行こうと行ったら、急遽飛び入りで参加したお母さんが、即、「虫除けスプレーないですか?」って始まって、私は、「うわ、怒ってる!」って思って。
子どもはワーワー泣いて、1歳6ヶ月くらいで、人見知りも激しくて、いっぱいの人がいるからバギーから降ろすと泣いちゃう。
そうするとお母さんだんだんイラついてくるんだけど、そういうときに、本当は、放っておけば、必ず子どもって、いずれ黙って行くんですよ。 
例えばお部屋の中で、保育園なんかもそうですが、お部屋の中で子どもが泣いていてもテラスに出したりお散歩に出したりするとスッと泣き止む。
皆さん方って子ども泣いているときにお外にフラって行くとスッと泣き止むでしょう?つまり外ってそのくらい威力があるんですよね。だから、ちょっと放っておけば大丈夫なんですが、その時に支援者さんたちって、すぐに「どうしたの?」と手を出しちゃう。
そうすると、多分お母さん方って、責められたような気になるんですよね。
「泣かせちゃった・・・」と。 泣いていても大丈夫よ、泣かしといてくれりゃ、あまり、気にならない、大丈夫大丈夫、肺の練習よ、と言ってくれればいいんですけども、なかなかそういうのは難しい。

そこで、昨日は何を企てたかと言うと、その支援者さんたちに、散歩でとっておきのお土産を一個必ず見つけて持って来いという指令を出したら、自分達もお土産探してるうちにそのことにムキになったので、子どもも結構放っておかれたんです。
一時間たっぷり放っておかれて、というか、散歩をしてきたら、子どもはもっと遊びたくてしょうがなくなっていました。で、大人もすごく楽な顔になってる。というのはなんでか?と言うと、別に何をしたの?と言われると何をしたんだかよく分からない。
ウロウロと、無駄な歩きを一時間してきただけなんです。だけど、色んなものを見つけたり、色んなものを楽しんだりと。実は、そういう、目の前で起こっている一個一個の出来事を楽しめることが、多分子育てと重なってきますよ、という風に思っています。